Digit!

日常で起こる様々な現象に、ツッコんだりボケたりするブログ。

お笑いとお酒のお話し

 風呂に入りながら、ふと思いついた。

お笑いお酒ってどこか似ているところがあるなぁ、と。

 

 ウイスキー、ビール、ブランデーと色んなお酒があるように、お笑いも落語、漫才、ピンと笑いの取り方は様々だ。さしづめバーでブランデーを嗜むのが落語で、居酒屋でハイボールをぐびっといくのが漫才だろう。

 好きなものはとことん好きで、何杯でもおかわりしたくなるけど、苦いからといって全く飲めないものだってある。若いもんの飲むものは分からんといって意気地張ってる老人を見ると、どこか今のお笑いの縮図を見ているようだ。

 特に似ていると言えば……酒の席でお酒の薀蓄を語っている奴がいると急に不味くなるのと同じように、お笑い論を語られると急につまらなく感じてしまう。酒とお笑いは何も考えないのが一番楽しい

 

 熟成すると味がまろやかで奥深くなるのがブランデーやウイスキーだが、落語家や大御所芸人は場数を踏んでいて安定感のある面白さが良い。生ビールは熱処理をしていないので早めに頂かないといけない、若手芸人も情熱にあふれていてフルーティで爽やかでまるで搾りたてのビールのようである。

 問題は中堅芸人だ。ある程度の安心した面白さがあって、若手ほどはガツガツしてない。おそらく、この中途半端な特徴がテレビ的に使いやすいから、今は中堅芸人が引っ張りだこなのだろう。だけど、この傾向はバラエティ番組を駄目にしてしまうのではないだろうか。鶴瓶上岡パぺポTVみたいに大御所がお笑いの知識を披露したり、初期のめちゃイケみたいに若手だけの革新的な番組をつくるのがバラエティの本質ではないのか?いつもの中堅芸人たちを出して、同じような企画で笑いをとる、これの何処がvariety(多様性)なのだろうか?

 

 色んな味の酒を飲ませてくれよ、なぁマスター。

近眼バカ話。

近眼になってからというもの、メガネ無しでは生きられない体になってしまった。

 

小さい時に、近所に住んでいる眼鏡坊主に「メガネを付けないと、どんな感じ?」って聞いたことがあった。そのとき、彼は「海の中にいるみたい。」と言っていたが。なるほど。いざ体験してみると言いえて妙である。

近眼のデメリットばかり取り上げられて、いかにも悪者のように見られてしまうが、実はメリットもある。例えば……性行為のときに、多少ブサイクでも気にならない。はっきりと見えてしまうと、興ざめしてしまうだろう。見えなかった方が良かったなんてことは、地球上にありとあらゆるほど存在している。恋人の不倫現場や、自分のことを指さして笑うすがた……。

僕は思う。メガネがなかったら、自殺者の人数は確実に減るだろう。まぁ、交通事故の件数は増えるだろうがね。

 

さっき、ラーメンを食べてきた。ラーメンを食べるときは、いつもメガネを外しているので、さっきも海の中でラーメンを食べていた。すると、僕の席のまわりをぐるぐると子供が走り回ってきたので、目の前を通るたびに増田岡田の岡田の「ぱぁ!出た!」小さくやって見せた。ケラケラと笑ってくれるので、楽しくなって何度もやっていたら、3回目くらいで「ぱぁ!出た!」を見知らぬ女性にやってしまった……まんまと子供にだまされてしまったよ。そのあと、うつむきながら必死にラーメンをかき込んだのは、言うまでもない。

久しぶりに近眼の自分が憎くなってしまったよ。

こんがらがったいと。

方言か標準語か、どっちだったか分からなくなってしまうことはないだろうか。

 

寒い時には手がかじかむ。かじかむは全国的に通じるらしいのだが、字面を見る限り田舎くさくて方言のような気もする。かじけるもあるらしいが、そっちはもはや方言と化しているらしい。

九州の地元の方では「ランドセルをかるう」と言う。大体の意味は分かると思うが、背負うの意だ。これは方言なのだが、どうも身に沁み込みすぎて今でも使ってしまう。

 

今日、文章を書いていてどっちだったか迷ったのが「こんがらがる」だ。頭が混乱してしまうという意味だが、これは辞書にも載っているし標準語のようだ。ちなみに語源は10の112乗を表すサンスクリット語の「矜羯羅」が説としてあるらしい。那由他が10の60乗、不可思議が10の64乗、無量大数でさえも10の68乗。そのさらに上をいく矜羯羅のことを考えると、頭がこんがらがるのは納得できる。

 

標準語か方言かでこんがらがるのも、いろいろ知ることがあって悪くない。

 

 

 

神様に挨拶参りしとこうか。

どうも、もすです。

 

今日は図書館に行っていつものように本を借りてきた。図書館の近くに神社があり、普段は通り過ぎているのだが、今日は何だか気になってしょうがない。木漏れ日が石畳に照っていたのが綺麗だったのか、秋の陽気に誘われたのか、理由は分からないのですが無意識のうちに鳥居をくぐっていました。

 

 人の気は全く無く、そこらかしこに無造作に団栗が落ちていた。おそらくこの神社が生き生きとするのは三が日ぐらいなのだろう。人が居ないというのは神社としては死活問題なのかもしれないが、僕としては秋の陽気を一人で味わうことができて満足だ。聞こえてくるのは、葉擦れの音や、風切りの音ぐらいで、ときどき団栗を踏みつぶして鳴るカキッという音ぐらいだ。都会にいると音が溢れていて目まいがしそうになるが、たまには静かな空間で音を味わってみるのも悪くはない。

 

 小一時間お邪魔になったので、お礼をして帰ることにするか。いつも思うのだが、僕は叶えて欲しい願い事があまりないので、お参りに行くといつも何をお願いすればいいのか迷ってしまう。

「何となく、いい感じでよろしくお願いします」

大体、こんな感じでゆるくなってしまう、もっとひどい時には

「お疲れ様です」

神様って疲れるのか分からないが、一日に何日も悩み聞いてるから疲れているのかも。

「」

無言。これが一番多い気がする、仏教的には無欲でいいことなのかもしれない。

 

 今日は神様にゆるめの挨拶をすまし、神社を後にした。今度から、図書館の帰りはこうして挨拶がてらに寄ることにするか。そんな、のんびりとした秋の午後だった。